昭和40年代。町の映画館は潰れ、テアトルニュースと銀座東映も変革を迫られていた。銀座東映の場合は、昭和35年に現在の東映会館が完成し、丸の内東映がオープンしたこともあって、銀座に2館は必要ないということだったかもしれなneostrata 果酸い。

 いずれにしても、三原橋地下街の映画館はピンク映画に転身することで生き残りを図った。日活がロマンポルノに転じたのが昭和46年で、似たような発想だったのだろう。
 その頃、私が子供の頃に通った下町の映画館もピンク上映館に変わったので、三原橋地下街に限ったことではなかった。


 この頃、ピンク映画はひとつの黎明期を迎えていた。
 東宝の子会社・新東宝が倒産すると、社長だった大蔵貢が昭和37年に大蔵映画を設立し、ピンク映画に乗り出す。新東宝の一部社員が新東宝興業を設立し、昭和39年からは新東宝映画に社名変更し、ピンク映画を作る。
 そうした中から、若松孝二・高橋伴明・井筒和幸が生まれ、のちに崔洋一・黒沢清・周防正行・滝田洋二郎といった監督を生んでいく。

 しかし、そのピンク映画もやがて下火となる。日活ロマンポルノが昭和63年に終了、ピンク映画の人気も衰退する。
 この原因は家庭用ビデオプレーヤーが普及し、レンタルショップが一般化したことによる。ソニーのベータマックスが昭和50年、ビクターのVHSが51年に発売され、以後急速exuviance 果酸に普及する。63年には60%を超えている。
 つまり、ピンク映画館ではなく、家でアダルトビデオを見る時代に世の中は変わっていた。
 三原橋地下街の映画館がシネパトスとなったのは昭和63年で、まさにこの時期と一致している。つまり第2期から第3期への移行時期は、家庭用ビデオの普及時期だった。

 映画がテレビに娯楽の王座を追われてピンク映画館に転じ、またしてもアダルトビデオに追われたわけだ。
 そうしてシネパトスは3館体制になり、ピンクを含む雑多な映画を上映するようになる。
 面白いのは、そうやって三原橋地下街の映画館がピンク映画の衰退から再び変身したのが、映画界では映画興行が個人の嗜好に合わせて細分化するシネコンの時代への幕開けだったことだ。
 マスから個へ、その時代の流れにまたしても乗っかった。

 日本におけるシネコン第1号はキネカ大森とされ、昭和59年のこと。オープン当時のキネカ大森に行ったことがあるが、大スクリーンを見慣れた目には映画会社の試写室のようで、これならビデオで十分じゃないかと思った記憶がある。
 その後、シネコンのスクリーンも大型化していくが、日本でシネコンの普及に貢献したのは外資系のワーナー・マイカルで平成5年のこと。この年を境に、日本のスクリーン数は増加に転じる。
 同時に映画、とりわけ邦画が小型化し、単館上映用の作品が多く作られるようになった。

 それ以前、封切り館はほとんど東宝・東映・松竹といった映画会社系列しかなく、小規模上映できる独立経営の映画館は大都市だけに限られていた。しかも、東京でもそのような映画館は数えるほどしかない。スクリーンが大きければ映画館側もリスキーな映画は尻ごみする。
 一部の人しか見ないような映画を公開するのは非常な困難があった。

 シネコンは基本的には独立経営なので、そういった障壁がない。しかも、映画に合わせてスクリーンの大小も変えられる。シネコンが全国に広がれば、製作会社も映画館との個別交渉で全国展開も可能になる。
 もっとも映画作りはそれなりの製作費が掛るために少ないスクリーン数では赤字になる。revitalash 睫毛增長液その問題を解決したのが、皮肉なことにピンク映画館を駆逐したビデオだった。

 シネコンで小規模上映しかできない映画でも、ビデオが売れれば製作費が回収できるかもしれない、という可能性が生まれた。
 それまでは採算上から映画化が困難だった映画企画が実現できるようになった。テレビも多チャンネル化し、コンテンツがほしいCSテレビ局も出資するようになった。

 ただ、それがいいことづくめだとは私は思わない。とりわけ邦画の小粒化を招き、正直面白い作品が少なくなった。ビデオを売ることが第一の目的化し、マニアックな作品、内輪受けの作品、奇をてらった作品ばかりになり、誰が見ても面白いと思う作品に巡り合わなくなった。
 ただ、そういった作品も映画館も個別化・小規模化する時代に、三原橋地下街の映画館はピンクから二度目の転身を図ったわけだ。

 それから25年弱、つまり四半世紀。映画の歴史そのものを歩み、したたかに生き残ってきた三原橋地下街の映画館はついに幕を下ろした。
 この映画館の歴史を継ぐのはどこか? 融通無碍に転身を図れるような映画館はもう出てこないような気がする。
 銀座シネパトスは映画の聖地ではなく、映画の戦後史そのものであったように思う。